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平和な世界の実現を目指す為に戦争を語り継いでゆきます
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[ヒロシマを生きる・番外編]常陽新聞赤嶺さん記事

常陽新聞の記者赤嶺さんが
2010年11月、初めて広島を訪問してのレポートを
7回に渡って寄せられた記事を
是非皆様に読んでいただきたく掲載いたします。
画像の上でポインターをクリックすると
少しはきれいに読めます。

村上啓子さんと歩く

 1 爆心地
 
廃墟の中の温もり

 広島での初の一歩は、広島バスセンターだった。私たちのために帰省していた村上啓子さんと歩きだす。「そういえば皆さんご存知の『仁義なき戦い』。広島戦争という暴力団抗争がありますが、原爆のあと、たくさんの孤児ができたでしょう?そういう孤児たちを吸い上げて下っ端にして、広島の暴力団は大きくなった側面があったそうですよ」。初めての広島で、最初に聞いた原爆がらみの話だった。1本か2本、映画を見はしたが、こんな場所で「仁義なき戦い」に出くわすとは思わなかった。「原爆」の影響の底深さの一端に触れた思いだった。
 目の前には背の高いスタジアム。広島市民球場だった。角の交差点の名は「原爆ドーム前」。通りをはさんだ反対側の木立の中が、その原爆ドームだった。
 ドームの周辺は公園として整備されていて想像よりも広い。いくつもの石の碑や説明板が並ぶ。朝の光に陰影の濃いドームを、ゆっくりと一周。崩れ残った分厚い外壁の間から、がらんどうの内部が見える。むき出しの地面にがれきが散らばり、草の緑も交じっている。
 保存工事の是非を巡る論争を経て保存処理が施されたというドームの天井部分には、そう思って見るからか、今にも壊れそうな危うさは感じられない。致し方ないことか。朽ちるにまかせていては、私も見られなかったかもしれない。
 土曜の午前10時過ぎという時間帯のためかどうか、次々に人がやってくる。川に面した側では解説パネルの前で、手帳のようなものを掲げながら人々に語っている年配の男性がいる。外国人旅行客らしい姿も交じる。
 正式名称は広島県産業奨励館。後で村上さんに聞いたところによると、周りにはほかにも金融関係などモダンなビルがいくつもあった。ここは県の建物だったために取り壊しがされずにいつまでもあったこと、丸い屋根が親しまれていたことが、今日に残る要因だったらしい。設計はチェコの建築家。崩れかけてなお、絵になるような風格があると思う。
 ドームから街に一区画入って立ったのは、白っぽく高い建物の壁の前。「島病院」だという。驚いた。2005年の連載「ヒロシマに生きる」第1部では、大半の写真を広島平和記念資料館からデータを借りて載せさせてもらったのだが、最終回のそれは、がれきと化した島病院の跡に置かれた手書きの板だった。人間の存在を拒絶するかのような一帯の中、「患者…の生死消息を御記入下さい」の文字には温かい血が通っていた。その65年後の場所に、いきなり居た。隣は小さな駐車場。
 村上さんの母上は、ここから東方の袋町国民学校に設けられた救護所で、体に無数に刺さったガラス片を抜いてもらうなど、たまたま難を逃れたこの医師に世話になったのだという。「愛にあふれた先生でしたよ」。爆心地としての説明板が立つ島外科内科は、今も診療を続けている。
    ◇
 11月下旬、広島県を訪れた。6月までの本紙連載「ヒロシマを生きる」の執筆者だった村上啓子さん(牛久市在住)とともに、被爆地・広島市と、戦時中に毒ガスを製造していた大久野島を歩くためである。一行はつくば市周辺から私を含めて4人、神奈川県から2人。日程は広島に2泊、大久野島で1泊。5回にわたって報告する。    
    (赤嶺容子)

[ヒロシマを生きる・番外編]常陽新聞赤嶺さん記事_d0167594_14191111.jpg

P 原爆ドームの前で耳を傾ける人たち
# by tcww | 2011-01-31 14:20

[村上啓子さんと歩く]2010年12月31日記事

村上啓子さんと歩く

 2 平和公園

かつてのにぎわいの上で

 相生(あいおい)橋は、その平面形がT字型をしているために、原爆投下の目標とされたという。2日目は、そのTの縦の棒を南に歩いて、平和公園のある中州に入った。元安川をはさんで原爆ドームの対岸である。
 平和の鐘、平和の時計塔などがある北部の空き地では今年の8月6日、つくば市でもその3日前に公演した米の先住民・ホピ族のデリック・スワイマさんが伝統のフープダンスを披露した。
 川向こうの原爆ドームを背景にカラフルな民族衣装姿で踊りながら、いくつものフープを地球のように組んで高く掲げるデリックさんの周りにはたちまち大勢の人が集まり、いつまでもシャッターが切られていた、とは村上さんの話である。求めに応えて何度も踊り、「しまいには汗でフープが組めなくなったそうよ」。ホピ族の住む地は、原爆開発を目ざしたマンハッタン計画以降のウラン採取のため、甚だしい放射能汚染が広がっているにもかかわらず、ほとんど放置されていると聞く。
 公園の西北部にある原爆供養塔は、半球状に土盛りした墓地。被爆当時、一帯にあった名も確かめようのない多くの遺体を荼毘(だび)にふした所という。納められているのは約7万柱。その前で、村上さんの仲間のNGO「ヒロシマスピークスアウト(HSO)」の浜井道子さんが話してくれた。市の南東、比治山のふもとの滝の清れつな水を、毎年8月6日にいくつもの慰霊碑に捧げて回る高齢の女性がいる。手伝おうとしても、断られるという。あちこちに今もたくさんあるのだろう、水を求めて死んでいった人々に寄せる気持ちを思った。
 南隣に立つ、亀に乗った形の韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、当初、平和公園の西を流れる本川にかかる橋の西のたもとに建っていた。「朝鮮の王族で軍の教育参謀だった李さんが被爆し、乗っていた馬の鞍(くら)が見つかった所に建てたのです。でも、訪れた人たちから、公園の中に入れないのは差別だ、と抗議が起こった。そうじゃないと、何度も説明しても聞いてもらえなくて結局、市が公園の中に移したのです」と村上さん。
 当時の広島では3、4万人の朝鮮半島出身の人々が働いていた。亀は、半島の方角に向いているという。「地元の東洋工業(マツダ)は、本国を離れて働きにきているんだからと、日本人よりご飯を多くよそったそうです。だからあの会社では、訴訟とか無かったと聞いています」。
 一段低い隣には、上段の石がかたわらに落ちている五輪塔。風輪や火輪と呼ばれる石を飛ばした爆風の動きを、やはりHSOの青山浩志さんが説明してくれた。平和公園は整備する際に盛り土をしたのだが、周りより30㌢以上は低いここだけが唯一、被爆当時の高さの地面なのだ、とも。かなりの繁華街だったというこの地域の、それまでと、その日が思われる。人々が忙しく行きかう朝夕を見続け、真夏の朝の突然の閃光、爆風と灼熱、惨状を受け止めた地面が、この足の裏の高さに広がっている。
 毎夏、広島市による慰霊式が行われる原爆死没者慰霊碑の前に立つ。思いのほかこぢんまりと感じるアーチ型の屋根の下、真正面に原爆ドームが見える。すぐ北の平和の池、平和の灯ともども、一直線上に連なるように設計されているのを初めて知った。参列者が座る場所は芝生。
 「テレビでは、とても静かで厳粛な式に感じるでしょうけれど」と以前、村上さんが話してくれたのを思い出す。「本川をはさんだ対岸などでは、右翼の街宣車がマイクで騒いだりして、それはうるさいのです。指向性の強いマイクを使って、周囲の音が入らないようにしているんでしょうね」。地元の人にしかわからない状況というのはやはり、ある。

[村上啓子さんと歩く]2010年12月31日記事_d0167594_146569.jpg

P 死者は亀の背に乗って昇天するとの伝説に従って作られた韓国人原爆犠牲者慰霊碑
# by tcww | 2011-01-31 14:07

[ヒロシマを生きる・番外編]NO3

村上啓子さんと歩く

3 平和記念資料館

「物」はその時のまま

 平和公園のほぼ南端、広島平和記念資料館は東西に長い。日曜のためもあってか入り口には大勢の人。大人50円という入館料には、館の意識を感じる。
 ここで一行は2グループに分かれ、それぞれ、同館のヒロシマピースボランティアと呼ばれる解説ボランティア、原田健一さん、青山浩志さんと共に見ることになった。資料館は、広島市の歴史を古代から今日まで示す東館と、原爆に関する展示をしている本館とに分かれている。私たち青山グループは、本館からスタートした。
 入ってすぐの縦長の写真は、原爆投下直後、天に届くかと思うほどにわきあがる雲。最下段にごく小さく人の後ろ姿が入っているのが、その大きさと恐怖をまざまざと感じさせる。
 隣に、れんがのがれきの上を、ぼうぼうの髪で歩く女性ら3人の模型があった。「こんなにやけどをしていたら、着物も髪も溶けてなくなってるはず。黒っぽいものは特に瞬時に焼けてしまったし、皆、実際には裸ですよ。この展示はだから、嘘」。村上さんの口調はきっぱりとしている。「当時はたいていは木造の家。れんがの上を歩くことも、そうはないはず」
 ケースの遺品には、墨書の名札、焼け焦げのある女学校や中学の制服、ゲートル、ご飯が炭化した弁当箱など、市中心部への建物疎開に駆り出されて死亡した中学生・女学生たちが多いとの話を裏付けるように、少年少女の遺品が多い。13~14歳という年齢にしては衣服が小さく感じるのは、当時の体格がそうだったのか、何かの理由で服が縮んだのか。
 被害は「熱線」「爆風」「高熱火災」「放射線」に分けて展示されている。湾曲した数㌢の黒っぽい棒は、被爆後も伸び続けた、人の爪。「切ると赤い血が出てくるそうです。爪には普通、血がないわけで、原爆の影響については、まだ解明されていない不思議なことがいくつもあります」と青山さん。戦後29年たってから、体から「自然に外へ出てきた」ガラス片も。縫い針の束はそのまま鉱石のように固まり、ガラスびんはうねり、陶磁器の茶わん同士もくっついている。「さわれます」との説明がある高熱のためにガラス化した瓦には、「安全です」と付け加えられているのが、怖さを呼ぶ。銀行の入り口にいた人の影が黒く残る石段も展示されていた。
 「放射線」の一画では、1999年の茨城県東海村のJCO事業所での臨界事故への言及も。それによると、亡くなった篠原理人さん、大内久さんが浴びた放射線の量は6000~2万ミリシーベルト。100%死ぬという、とんでもない量だったらしい。
 ところどころに、手描きの絵がある。赤ん坊を抱いて走る姿のまま焼けて黒くなった母親、口を開けて黒い雨を飲む姿も。一人一人が紙に残した記憶と文字の抱えた痛み。遺品などに劣らぬ力を持ってそれらの絵が胸に迫るのは、なぜだろう。
 「千羽折れば…」と鶴を折り続けた佐々木禎子さんのコーナーには、指先ほどの小さな折鶴が並ぶ。「千羽にならないように、そっと、母が少しずつ隠したと、お兄さんが打ち明けてくれたそうです」と村上さん。
 直後の救護活動を伝える展示中、赤十字国際委員会駐日主席代表のM・ジュノー博士による15トンの医薬品支援の説明に、「このうち3トンが盗まれたとか。父は私の原爆症治療のために闇市でペニシリンを買ってくれたから、その中の品だったのかもね」と村上さんらが笑う一幕もあった。
[ヒロシマを生きる・番外編]NO3_d0167594_1433440.jpg

P1 黒い爪と、手の写真
P2 被爆したびんや、陶器、仏像=いずれも広島平和記念資料館
# by tcww | 2011-01-31 14:03

[ヒロシマを生きる・番外編]NO4

村上啓子さんと歩く

4 被爆者

原爆から逃げたい

 資料館の本館、広島市全体の被爆状況を示す模型の前で、全員で同館の元館長、畑口實さんの話を聞く。「ヒロシマピースボランティア」と書かれた緑のジャンパーを着た畑口さんは、入館者への解説をするボランティアの一人でもある。
 「私の親は当時、ここから20㌔西の宮島口に住んでいました。父は鉄道局に勤めて、広島駅に行っていました」。静かな声でとつとつと語る。
 ―その時、母はピカッと光るのを感じ、音がして広島の方が煙でもうもうとなっているのを見たそうです。父が帰ってこないけれども、鉄道は不通。4日後、歩いて広島駅に行き、探し当てた同僚から、父のバックルと懐中時計を遺品として受け取り、近くにあった遺骨を拾って帰ってきました。時計は父が東京で何かの賞でもらったものだったので、父のものとわかったそうです。父は31歳、母は27歳で、入市被爆者です。私は母の胎内にいて2カ月でした。父は私の存在を知っていませんでした。
 私が2歳のころから母は仕事に出、朝と昼のご飯をおいて行きました。私は昼を食べると母の仕事場へ行ったりしていました。母は原爆の話をしなかったし、私も聞きませんでした。私は音楽が好きだったので、やがてアメリカにあこがれたのですが、十代後半から二十代になるとアメリカへの憎しみを覚えるようになり葛藤がありました。
 21歳の時に被爆者手帳を受け取ったのですが、見るのも嫌。運良く市職員になれて、被爆者行政とかありましたが、原爆という言葉を聞くのも嫌でした。51歳でここの館長になったのですが、それまで2回しか、ここには入ったことがなかったのです。同僚にも、自分が胎内被爆者だとは言っていませんでした。この2点も、一度は墓に収めました―。かたわらの展示ケースの中のバックルと時計に視線を送った。
 ―戦後生まれの初の館長として、いろいろ聞かれることが多くなりましたが、自分自身が被爆者だと言うのは苦しかったです。
 2005年、欧州の記者から質問されました。「なぜ被爆を隠していたのか、被爆したことを悪いことだと思っているんじゃないか」と。当たりでした。マスコミから当てられたのです。こそこそとずっと逃げ回って、五十代から少しずつ話すようになったのです。
 60歳の3月末の記者会見で「あなたは最後の被爆者だろう。お父さんは原爆で心を残して亡くなったが、お母さんが探し当てた。あなたが館長になったのは運命だったのだろう」と言われた時、少し気持ちが楽になりました―。
 一人が質問した。「なぜ、そんな風に悪いと思うようになったのですか?」。「わからない。そんな風に見られたくないっていうか、原爆とか、平和とかから逃げたい、という気持ちでした。被爆者差別とかもあったんですが、でも9割の被爆者は隠そうとしてきたと思う」。
 自身が創設にかかわったヒロシマピースボランティアの話では、明るい顔になった。60人の定員に対し、180人の応募があったという。在職中は研修の講師を務めていた。
 「定年退職後の去年1年は研修を受ける側になり、今年からボランティア開始です。伝える人になろう、と思って。入館者から意見を聞きたいし、問題点もわかる。証言活動に参加したい人の掘り起こしもできますし」。
 館内のあちこちで、入館者に静かに説明している緑のジャンパー姿が見られた。
    
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P 生い立ちなどを語る畑口實さん=広島平和記念資料館で
# by tcww | 2011-01-31 14:00

[ヒロシマを生きる・番外編]NO5

村上啓子さんと歩く

5 大久野島毒ガス資料館

毒を作るために

 JR広島駅を朝9時半ごろ出て、呉線の忠海駅に着いたのは昼近く。途中は明るい海のきらめきが楽しめた。フェリーで15分。大久野島の桟橋でバスに乗るとすぐに、何匹ものウサギが道の周りにいるのが見える。戦時中、秘密裏の毒ガス製造の拠点だったこの島は今、ウサギ島としても知られているらしい。
 唯一の宿泊施設である休暇村に荷物を預けて、近くの毒ガス資料館に入る。正式名称「東京第二陸軍造兵厰火工厰忠海兵器製造所」の1929年の開設前後の写真、一周4㌔という島内の全域に散らばる毒ガス関連施設の配置図、生産したガスの種類と性状の一覧。パンフレットによると生産の主力は、びらん性毒剤である「イペリット」だったらしい。ほかにルイサイト、青酸など。
 工場開設前のこの島を含む瀬戸内海の5万分の1の地図と、開設後、同じ地図ながら大久野島周辺が白く弧状にえぐられたものも並んでいた。「地図から消された島」でもあったという、その裏づけである。
 ゴム引きの作業着や目の部分の飛び出た防毒マスクを着けた人形、その内側に着た作業服の説明には、天花粉を入れるためのポケットが付いている、とも。茶色の太いホースのような管がぐるぐると巡っている、背丈よりも高い奇怪な姿の陶器は、液体毒ガスの冷却器。
 防毒マスクを着けた異様な姿で中国・上海や山西省を行く日本兵たちの写真もあった。毒ガスは主に中国戦線に向け作られたと、後で聞いた。火工厰の制帽や施設内会食所の食器などに付けられたマークは、黒丸の上に3本の線の「火の玉」という。ブラックユーモアか。
 館内にしばらくいると、何やら刺激性というのか、痛みほどではないものの、つい目をパチパチさせてしまうような感じになった。気のせいかとも思ったが、「溶解槽」「生成液受器」などの、腰高ほどの陶器のかめ複数をはじめ、ケースに入らない露出展示もいくつかあるから、思わずガスの残留では、などと想像が働いてしまう。後でほかの人に尋ねたら、やはり同じように感じたという。保存処理の薬品の臭いではないかという人もいた。
 工場で働く工員となるための「陸軍技能者養成所」の卒業式の写真の説明には「『毒ガス兵器は、血を流すようなむごたらしいことにはならず、いちはやく回復し苦しまなくてすむ』と教えられたそうです。卒業と同時に各製造工場に配置され、自由にやめることもできませんでした」とあった。
 だが、別室で見たビデオ「証言でつづる大久野島」では、働いていた人たちによる「何を作っているか知らされなかった」「互いが何をしているか知らされなかったし家族にも仕事の内容は話さない」との声がある。養成所を卒業した人と、徴用などで連れてこられた人との違いだろうか。中には「誓約書を守って、自分がかかった医師にも最後まで毒ガスのことを言わなかった」人もいたという。
 元看護婦によれば、「島全体に特殊な臭気があった。工場に入らない人も体調をくずしていた。胃腸障害とか猛烈な咳とか。ほとんどの人が呼吸困難になっていた」という。ほかの人も「天気の悪い日は目が痛くなる」「塩素には防毒マスクが効かない。1年ぐらいで体はぼろぼろになった」などと証言しているのだが、最後まで聞く時間はなかった。
    (赤嶺容子)
[ヒロシマを生きる・番外編]NO5_d0167594_13551968.jpg

 P 毒ガス資料館=広島県竹原市大久野島
# by tcww | 2011-01-31 13:55